日常

禅て何だろう~厳しい禅の修行で起きた奇跡のコラボレーション 雲水と炊飯ジャー~

 

こんにちは。和尚です。

今日は私の修行時代に起こった奇跡の体験についてお話していきます!

初めての方は、まず軽くここで一杯引っかけてやってください^^

「禅」てなんだろう?~拈華微笑~ はじめまして 第20世住職 鈴木 元浩(スズキ ゲンコウ)と申します。 ...

禅宗の修行は専門道場が全国にいくつかあり、我々臨済宗では京都や鎌倉にある道場が有名です。

私は京都嵐山の天龍寺で4年間修行しました。

「修行って滝に打たれたりしてるの?」なんてよく言われるけど、滝は打たれていませんが、警策(けいさく)は死ぬほど打たれてきました!※あのお坊さんが持っている棒みたいなやつね^^;

禅宗の修行で代表的なのは坐禅

「座禅」と「坐禅」の二文字があるんですが、本当はまだれ广がないほうを書きます。

「坐」は坐るという動作を指しており、「座」は坐る場所を指してます。

禅ではこの坐るという動作そのものが大切で、自ら坐禅をして己自究明(自分を超えたもうひとつ上の自分を究明すること)する教え。だからこの動作そのものが修行なのです。

この坐禅をしているときはとにかく眠い!

朝は早いし昼は掃除や托鉢と、馬車馬のごとく動き、とにかく肉体的には大変です。私の同じ修行仲間の中には、入ったときは100kgほどあった体重が、70kgまで落ちたやつがいました。まあ出てから今はリバウンドしまくっていますが・・・。

坐禅中知らず知らずに眠ってしまうと、禅堂を仕切る古参(何年も修行している超おそろしい大先輩)がスチャッ・・・と降りてきて、恐怖の警策をもってこちらへゆっくりと近づいてくる・・・。ハッ!ときづいたときはもう遅い・・・

ドバシッ!ドバシッ!

と数発打たれまくり、強制的に目を覚まさせられる。

ちなみに私は右50発、左50発と計100発打たれたことがあります(笑)

でもこれは決して暴力ではなく、真剣に命をかけて修行をしている証拠なのです。勘違いしませんように!

禅堂で坐禅する姿。こちらはある行事が終わり、雲水衣ではないが記念に写したもの。右から二番目が著者。

 

こんなに厳しく、そしてキチッと規律を守って生活している中で、たまにとんでもない奇跡が起こることがあります。

年に1度の春に、お寺がお世話になっている人々を招待して精進料理を振る舞う行事があります。

僧堂は本山である天龍寺の専門道場なので、天龍寺の行事はすべて雲水たちが下働きをします。掃除をしたり、会場の設営をしたり、来賓の方々にお茶をお出したりとやること満載。

それはこの行事で起きました。

僧堂では基本、先輩から言われたことはすべて服従。どんなに白いものでも黒!の超縦社会。

その日も一人の新人雲水さんが訳も分からず怒鳴られまくり、あたふたしていました。

あー、自分も入りたての時はこんなんだったなー・・・と思っていると、

「タケノコご飯できたから、とりにきてー!」という声が。

3月ごろ道場に入門して数か月の新人雲水は、そのころになると頭で考えるより体が先に反応する、ちょうどロボ化している時期。

「ハイっっ!」

と威勢のよい返事をし、タケノコご飯を取りに。

数分後、電子ジャーを持って部屋に入ってきたその雲水さん。ジャーのコンセントを探している・・・

私もいっしょになってコンセントの位置を探していると、全部ふさがっている・・・。しかし早くささないとタケノコご飯が冷める・・・。

そうこうしていると違う雲水があった!とついに発見。見ると頭上に一つだけ。

ほっと胸をなでおろしたのもつかの間、コンセントをさそうとすると線の長さが足らないではないか!!

ヤバイ!もう料理を出す時間が近づいてきている!

冷めたタケノコご飯なんか出したら天龍寺の名を汚すことになる!

そして最悪なこと続くもの・・・。ガラガラッ!と勢いよく戸が開いたかと思うと、死ぬほど怖い先輩雲水が入ってきたのである!

「こらー!タケノコご飯もってなにウロウロしてんだ!早く温めろ!!!」

(もう終わりだ…)

と思った次の瞬間・・・

ジャーを持っていた雲水が上にあるコンセントに線をさし、迷うことなく頭の上にタケノコご飯ジャーを載せたのであります!

まわりは一瞬何が起こったのかわかりません。が、数秒後に大爆笑!

結局となりの部屋に持っていき、そこで無事タケノコご飯を出すこととなりました。

 

20年ほど前の話で、その時の奇跡に大笑いしたのですが、僧堂から出て今になって思い返すと、あれが本当の禅だったのではないかと思うのです。

 

禅では、我を忘れてその瞬間に「なりきる」ことをよくいわれます。

後輩のとったあの咄嗟な行動はまさに禅そのものなのです。

禅とは頭で考えた分別の世界から、その理屈を超えた先のものを引っ張り出すこと。

あの瞬間、後輩は炊飯器そのものになったのです!

関山慧玄の「雨漏りとザルの話」のように・・・

僧堂では緊張がありすぎて、このようにとんでもないことがよく起こります。また思い出したら綴っていこうと思いますので、これからもよろしくね^^