こんにちは。和尚です。
人間誰でも道を究め、その世界に人生を捧げた後、どう生きていけばよいか、となるわけです。
これはお坊さんの世界で言えば「悟り」となるわけですが、そんなものは一般でも言えるわけであって、その道で究めた人などはたくさんおられます。
その昔、あるマラソン選手。事あるごとに「マラソンに例えると・・・」と、なんでもマラソンで表現している方がいらっしゃいました。
つまり「その道」で究めた人は、その道ですべて整っていなければならない。あれこれと他のところから引用するようでは、その道を究めたということにはならない。
ここが禅でいう、「法に落とし込んだ」という部分であります。
さてきょうはその禅~ZEN~の名僧のお話。

関山和尚
鎌倉時代、武士の台頭もあって「禅」は時代のニューウェーブとして流行し、全国の武士たちはこぞってこの禅の思想を矜持として生きていました。
そんな武士たちは、自分の死生観を禅に託し、名僧たちのもとへ出向くことによって己の生き方を肯定していたのだろうと思われます。
京都の西にある臨済宗の本山「妙心寺」。
開山(お寺を開かれたお坊さん)は関山慧玄(かんざんえげん)。この鎌倉時代末期から活躍した名僧の一人であります。日本臨済宗はすべてこのお坊さんの流れを引いており、今日があるのです。
とても厳しい指導で、形式にこだわらない禅風であったそう。
そんな関山禅師、当時の天皇から勅命が下り、妙心寺の住職となるお話。

悟後の修行
時は南北朝時代。印可(悟りの証明)をもらった関山禅師は、一人岐阜の伊深の山奥にいた。悟った後の修行、つまり「悟後の修行」である。
わかんねーことあったら何でも言えよ。教えてやっから。
関山はこの夫婦にいろいろと世話になりながら禅の生活をしていくのである。
このまえは肥汲みもろくにできねーし、まったく使えねーやつだなー!
(いつも口は悪いけど、心はやさしいんだよなー、このオヤジ)
こうして数年間、だれにも自分の素性を明かすことなく生活するのであった。そしてついにその日が来る・・・
それは関山が天皇の命により、妙心寺の住職となる話であった。今まで返答を渋っておったが、こんな田舎まで使いが来た。やむを得ず、ついに山を下りることを決心するのである。
おい、なんか俺たち2人に言葉を残していってくれねーか?
こういって夫婦のおでことおでこを「ゴチン!」とやりました。
こうして関山は山を後にし、亡くなるまでこの禅風を伝えていかれたのである。

禅は「不立文字」
文字面で惑わされない。心から響いたものを持ってこなければならないし、それを常に磨いていかなければならない。
これが関山悟後のお話であります。いかがでしょうか?皆さんにある道を見つけ、人生を整えられますよう応援しております。