こんにちは。和尚です。
無になること?? 「よく坐禅したら無になるんですよね?」とたずねられます。
「無」とはどういうことなのか…
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茗荷(みょうが)を食べるとバカになる
茗荷(みょうが)を食べたらバカになるというお話があります。
むかし、お釈迦さんの弟子で、周梨槃特(しゅりはんどく)という人がいました。よくできる兄と一緒に出家し、頑張って修行をするのですが・・・。
弟の彼はというと、とても物覚えが悪く、自分の名前も忘れてしまうので、いつも名札を付けてボケーっとしているだけ。
あまりにもひどいのでみんかなからバカにされていじめられる毎日。
彼の兄は、もう弟に修行を止めさせたほうがよいのではないかと思い詰め、そのことをお釈迦さまに相談しました。
お釈迦さんはこういいました。
「毎日身の回りを掃除しつづけさせなさい。」
そのことを彼に伝え、周梨槃特は言いつけをまもり、ひたすらお掃除をし続けました。

愚直にお掃除をすることによって、最初はバカにしていた者たちも自然と感化され、尊敬するようになりました。
そしてついに彼は弟想いの兄と同じように、お悟りを開きました。
その周梨槃特が亡くなり、お墓から生えたのが茗荷であったそう。茗荷は「名前を荷う」と書かれ、物忘れを意味していますから、食べると物忘れをする(バカになる)と言うお話が生まれたそうですね。

ここで大切なこと。
彼は周りの評価を求めることなく、ひたすら純粋にお掃除をしたということ。
これが「無」です。

アスリート
この夏はオリンピックで日本国中が盛り上がりました。しかしコロナで延期となり、1年遅い開催となってしまいました。
この舞台で活躍するのが様々なアスリートたち。ほんとうにモチベーションを保つのが大変だっただろうと思います。
この方たち、もう人間とは思えないほどのパフォーマンスを我々に見せてくれますが、やはりなんでも物事には始めがある通り、彼らも最初は我々とおなじスタートラインだったのは間違いありません。
みんなTVでは派手できらびやかな選手を見て、「この人たちは最初からこんな上手にできて、私はこんな才能もないしできない。」と思い込んでいますがそうではない。
雨の日も、風の日も、毎日の絶え間ない基本の繰り返しと地味な練習。
私もボクシングを続けていますが、最初の頃は約2か月ほど左ジャブしか練習させてもらえませんでした。たった2か月で根を上げそうになったことを思い出します。
プロアスリートはこんなことをただひたすら続けることができる・・・。ここが一番の大切なことです。
基本ができるから応用が利く。その応用こそが「道中の工夫」という禅のことばでしょう。

たとえばサッカー。
サッカーはただ玉を蹴るゲームで遊びの一つ。
最初は止まったボールもまっすぐに蹴れない。ましてや動いているボールを蹴ろうものならスカぶって自分が転倒。
「そんなボールばかり蹴っていて何の役に立つんだ」とバカにされながらも、毎日毎日相手のパスを受けてシュートしたり、ゴールキーパーならそのシュートを弾いたり、キャッチをし続ける。
するとある日から、とんでもないアクロバティックなシュートや、時速150kmの弾丸シュートを弾くなど、人とは違う動き、つまり「工夫」ができるようになる。
最初はバカにしていた人たちもその動きを見て驚き、もう一度見たいという気持ちになる。
やがてそんな選手がたくさん生まれ、プロ球団が組織化。スカウトされ、試合で大活躍。
その超人的なプレーに驚き、お金を払ってでもその人達を見に来るようになる。
選手の挫折や努力に注目され、人々はそこに感動と勇気を与えられる。
無になること
もとは好きなことをやっていた人間たちが努力して人々の目に留まり、やがてその人たちに「頑張ってもらいたい!」と援助する人間が現れる。
これは出家世界と同じで、お布施の原理といっしょ。つまりアスリートの年俸やお給料に当たるところが「お布施」なのです。
しかしアスリートたちはお金欲しさにこの競技を始めたのでしょうか・・・。

サッカーなら貧民街で家族を養うためという理由で始めたようなお話はよく聞きますが、最初から純粋にサッカーが嫌いだという人はいないはず。いたとしても、自分が上手くなり、強くなっていくことに快感を覚え、夢中になる時が必ずったはずです。
ましてや結果が付いてこようものなら、またその感動を味わいたいという思いが沸き上がり、「厳しいけれどまたこれからも続けていこうという!」という気持ちになっている人がほとんどではないでしょうか。
ここでの「夢中」とはまさしく「無」であることを指します。人にどういわれようが純粋な心で自分の世界に没頭する。練習、試合中はまわりの喧騒や観客声も入らないほどの集中力。そして外と内の世界が一つになっている状態。
今この瞬間に命を燃やし、一生懸命に生きる。 これが「無」であり、「禅のスタイル」なのです。
最後ですが、うちの母(現在74才)の笛です。数年前に母は大病を患いましたが、その前から続けている笛をあきらめずに吹き続け、ここまで演奏できるようになりました。良かったら聞いてやってください。