こんにちは。和尚です。
「和尚さん、坐禅したら悟れるのですか?」
「やはり出家しないと悟れないのですか?」
と、問われることがたまにあります。
みなさん、坐禅や出家は特別なことであると思われていますが、そこに陥らないことが大切なのです。
スタートはここから。

色眼鏡
鈴木正三(すずきしょうざん 1579~1655)は徳川幕府の家臣。42歳でその地位を捨て、出家して曹洞宗の僧侶となりました。
武士の頃から仏法に帰依し、そのころに書物にまとめた代表作の一つである「万民徳用」にはこう書いてあります。
人々の心のもち方が自由になり
人々が心の世界の中で
自由に振る舞うことができるようになるためならば
南無阿弥陀仏と念仏を唱えるのもよし
坐禅をしてみるのもよし
さらにはそんなことは何もしなくても
毎日自分に与えられたそれぞれの仕事に
精一杯打ち込んで働いていけば
それが人間として完成していくことになる
仮名書きのやさしい和文で民衆の日常に目を向け、宗教、禅、念仏にとらわれずに、世俗的な職業に励むこと自体が仏教修行であると説かれました。
このことから正三は、職業倫理を日本で初めて説いた禅僧だと言われています。
さらに正三はこう言っています。
智慧者は智慧に
慈悲者は慈悲に
坐禅者は坐禅に
見解者は見解に
それぞれ執着する我を立てる
どうしても普通の人より己が上にいる
「智慧が上だ」「慈悲が上だ」「坐禅が上だ」となってしまえば、人はそれに執着し、物事を判断してしまう。
つまりどんなに素晴らしい思想でも、それに固執しすぎれば、色眼鏡となって世界にバイアスをかけた状態となり、世界を正しく見えなくしてしまうのです。

私は以前のお話で、「その世界で整っていなければ、極めたとはいえない」と言いました。となると、矛盾?とお思いになるかもしれません。
しかしこれは自分の歩んだ道をモノサシにして、照らし合わせる作業をしているのであって、相手の道を否定していないということが大事なのです。
「坐禅」という言葉をたてにして、何か神秘的なことを体験でき、ただ坐っていれば真理に通じると考えるのは、「坐禅」に執着していることになります。
鈴木正三はこの坐禅でさえも「執着による我になりうる」と言っています。
魚屋の真理があってもいい、大工の真理があってもいい、お坊さんの真理があってもいい・・・
別個に区別し、我を立てて上下と見るのではなく、みんなそれぞれの真理を認め合う。
ここに正三の教えが生きてくるのです。
