日常

認められたいあなたへ

こんにちは。和尚です。

私はこれだけ頑張っているのに・・・

これだけあなたのことを思っているのに・・・

なぜわかってくれないんだ・・・

誰しもこんな気持ちになったことはあると思います。ほとんどの人間は人に認められたいという気持ちを心のどこかに持っているはず。

雨上がり決死隊の解散について思うこと~新しいことを始めるための勇気~こんにちは。和尚です。 私はけっこうお笑いが好きで、昔からよく観ています。 ひょうきん族 元気が出るテレビ カト...

お寺離れ

私はお寺の活動として、このブログはもちろん、御朱印、寺カフェや講演会など様々なことをしております。

理由は檀家さんの減少と、お寺離れがあらわになってきたと思えるから。

檀家さんですと、今の代でお家が絶えてしまうところや、子供が都会で生活してお墓の管理ができなくなり、離団せざるをえない状況になってきているということ。

この寺離れが進むと、これから支えていただく檀家さんの負担も増え、また仏教のすばらしさを広める機会も減っていくことが懸念されます。

そこでこういった活動をして檀家さん以外の方々にも注目していただき、一緒にこのお寺を護っていければという考えで様々な活動を始めました。

ただ、賛否両論ももちろんありますし、反対意見は耳にしております。

住職の私が中心となって一致団結で新しい催しや活動をと考えても、お寺は檀家さんのものですからそう簡単には運ばないことばかり・・・。

「なぜ皆さんのためにやっているのにわかってくれないんだろう・・・」

一時期はこのように思い詰めたこともありました。

しかし最近あるお話を聞いて気持ちが楽になりました。

又吉さん

お笑い芸人の又吉直樹さんをご存じでしょうか?

相方綾部さんとのコンビ「ピース」のボケ担当。独特な落ち着いた雰囲気とシュールな言動で人気を博しています。

しかも文筆家。2015年には「火花」という小説を上梓し、芥川賞を受賞された方でもあります。

現在ではYouTube「ピース又吉直樹【渦】公式チャンネル」を配信していまして、私はたまにこの動画を拝見しております。

その動画の中で、グッときたお話を紹介します。

又吉さんは元沖縄の出身で、小さい時に村の祭で三線に合わせながらお父さんが踊っていたそう。気分が良くなったお父さんは又吉さんに、「お前も踊れ」と無理やり誘い、又吉さんもお父さんとみんなのためならと思いながら踊りました。

それが大そうウケて、盛り上がったそうです。終わってから台所で麦茶を飲んでいたらお父さんがやってきて、「褒めてくれるのかな?」と思いきや、「お前、あんまり調子にのるなよ」と言われたそうです。又吉さんは自分の中で親父やみんなのためにやったのに、そんなアホなと思ったそうです。

きっとお父さんは人気をかっさらっていった息子に対して純粋に悔しかったんでしょうね。

また他のお話。高校の時はサッカー部で、最後の大事な試合にお父さんを呼びました。

彼は昔サッカーを始めた頃、最初の試合にお父さんが見にこられたのですが、チームで一番ヘタだったので「もうお前の試合はこれから絶対見にいかへん!」と言われ、それからというもの高校最後まで本当に来なかったそうです。

しかし彼は懸命に練習をし、高校では副キャプテンにまで成長されました。そしてケジメとして最後の試合を見に来てほしいとお父さんに頼みました。

試合は1点ビハインド・・・。しかしなんと後半1点を返し同点。

その時にお父さんの方をを見てみると、公園の砂場で友達と相撲を取っていたそうです。

さらにPK戦になり、なんとかその試合は勝利。その瞬間をお父さんに見てもらいたかたのですが、お父さんはPK戦の前にとっとと帰ってしまっていたそうです。

YouTubeで又吉さんは笑いながら述懐していましたが、その後にこんなことを言っていました。

だから僕にとっての青春で、僕にとっての全力で取り組んだサッカーというのは僕の中ですごいことだけど。

父親とかどっかの大人にとってはそんなにすごい事じゃないというか。

自分が中心世界のど真ん中におるわけではなくて、僕は僕の人生の中での真ん中にいるだけで。

それぞれの人生にとっては父親が息子が、大阪で優勝するかよりも、友達がどっちが相撲強いかの方が興味があったっていう・・・。

そういうのがそれでも真実じゃないですかね・・・。

僕はひどいよなとか思わないですよね、それは。

おもろいなーって思うんですけど。 

本音と建て前で言えば、本音の部分で行動しているからひどいなーと思えるかもしれませんが、かえってそのほうが健全ですし、要らぬ忖度はない。

この又吉さんのお話を聞いて、又吉さんの語り口調もあってのことですが、とても清々しい気分になりました。

みんなが持っている

だれかに良く思ってもらおうとか、だれかに認めてもらうためにしようとか、そんな顔色をうかがって行動するのではなく、自分の中心があるならば、他人の中心もあることを認め、いろんな角度から見ていかなければならないということ。

禅問答はいろんな角度から見るつくりになっているように、禅は同じ角度から物を見るということを危険視しています。

檀家さんの中には以前から静かにこのお寺を護られた方々もおられます。だから変化や新しいことをすることに不安になるのも当然です。

私の場合はそういったお気持ちを考え、見る角度を変えながら発信していく。そこに尽きるものだと勉強になりました。

何かをやろうとしても、同じ意見ではない人が出てくるのは当たりまえ。

自分の人生の中での真ん中。

みんな必ず持っている。

だからおもしろい。