こんにちは。禅宗のお寺、潮音院和尚です。
続・テーラワーダの風③
テーマは「タイで禅の公案を練る」
公案とは理屈を超えた究極のなぞなぞ。臨済宗では特にこの公案に臨んで修行します。
禅とタイのコラボ、最終話です。
※こちらは2019年のお話となっております。


公案とは
さて前回のとおり、なかなかハードな数日間だったわけですが、肝心の3回目研修のテーマはどうであったかを少しお話いたします。
それはある公案をもって拈提すること。拈提とは古則公案(テキスト)を提起して、工夫参究することことです。
その公案は無門関第一則にある「趙州無字(じょうしゅうむじ)」
ある僧が趙州和尚にこう質問した。「犬に仏性があるのかですか」趙州曰く、「無」と一言。

皆さんはどう思われますか?なかなか抽象的で、おそらく訳が分からないと感じているはず。
臨済宗の禅問答では必ずといっていいほど出される臨済禅の基本たる公案です。私は僧堂掛搭以来、恥ずかしながらこれがずっと自分の中で落とし込めきれておりませんでした。
数々の公案を出されてきましたが、今思えばどれも中途半端であったことは否めません。やはりこの基本の公案を自分のものにしなければ意味がないという思いに至ったわけです。
また坐禅をして考えてもっていく。また追い返される・・・。それの繰り返し。
人間の感覚器官
無とは、何も無いという意味もありますが、ここは禅の境涯を表す言葉です。無いのに有る世界。有るのに無い世界。これはいったいどういうことなのか。
前回では音ということに気づきがありました。タモ寺では、夜は大きな声で鳴くトカゲ、朝になると托鉢しながら聞く鶏の鳴声、そして昼間はけたたましく鳴る蝉の声が日常です。これはもちろん耳識に響く音としての作用ですが、私は坐禅中、それらを純粋な感覚で受け入れることができました。
「目・耳・鼻・舌・身・意」6つの感覚器官(六根)
「色・声・香・味・触・法」認識される対象(六境)
で構成されていて、合わせて十二処といわれるんだ。
目に対する認識対象は色(いろ かたち)、耳は声(おと)、鼻は香(におい)・・・という具合に。
そして認識され、縁を結んで現れた世界を十八界というんだよ。
耳識は六根の耳の感覚器官だね。
この経験を活かして今回は無というものを練ることにしてみました。すると、一つの言葉が頭に浮かんできました。それは輪廻です。
功徳ポイント
この国は、お寺にお坊さんにと大変な施しをします。タモ寺には白いお城のような巨大な仏塔がありますが、これはバンコクの資産家が一人で寄付されたそうです。
また、寺には世間とお坊さんたちとの橋渡し的な存在として信者(優婆塞 ウパーサカ)が常駐しています。これも無償であり、自ら進んでお世話をする大変人気のあるお役です。
このような考えに至るのは、本気で来世を信じているからなのです。現世で出家者やお寺に対して供養することは、徳を積んで来世に良いところへ生まれ変りたいという願望が強いからです。

喜捨した者は、それを誇示することもなく、名乗りも出て来ない。
テーラワーダのお坊さんたちは何のために出家するのかというと、二度と生まれ変わらないために修行しているのです。天、人間、餓鬼、畜生、地獄、(後に修羅も加えられる)という輪廻世界が仏教では信じられていますが、もし生まれ変わったならば、それぞれどの世界にも寿命があります。
天国はとても良いところなのですが、ほかの世界よりマシなだけで、いずれは亡くなってしまうという苦しみが生まれる。その苦しみを無くすには、出家して釈迦の説いた教えを実践する。それが仏教での出家なのです。
だから在家の人々は、仏教の象徴である仏、法、僧の三宝に帰依し、一生懸命に供養することによって、来世のために現世で功徳というポイントを貯めているのです。

功徳ポイントを貯めるために、子供たちに喜捨をさせる。どの国でも子供のためを思う心がわかる。
輪廻を超えた世界
輪廻はそれほどここの人々にとっては大切な思想なのですが、それならば、もし本当に輪廻というものがあるならば、私たちは現世から遠い過去世までいったどれだけの生まれ変わりを経てここまでたどり着いたのでしょうか・・・
あのダモ山の階段では到底足らない数であります。その生まれ変わる過程において、ときには天に、ときには地獄に、そして犬や猫、昆虫にと生まれ代わりを繰り返してきたのではないでしょうか。
ならばあの時に私のクティを訪れた猫は、遠い昔にあそこでコブラに噛まれて亡くなったお坊さんではないのかと思うのであります。そういう思いを馳せると、回りの動物や蝉の鳴声だけではなく、草木の風に揺られる音がより鮮明に私の中に入ってくるのです。

輪廻を意味する車輪。その横にはブッダ。
犬に仏性はあるのか、虫に仏性はあるのか、仏に仏性はあるのか。そんな些末なことはこの限られた世界だけ小さなの問いであります。輪廻を思量する。これが無字の公案の言わんとする大事なところではないかと思うのです。
人間が考える輪廻世界を越えたところ。
犬はワンワン、猫はニャンニャン、蝉はミンミンと、「あるがままの世界」が広がっていき、同じように今日もまた、私も人間の声を発するのであります。


これは私なりに導き出した答えなので、祖師方からは「もっと練ってこい!」とお叱りを受けるかもしれません。しかし少しでもこの公案を拈提できたことは、私にとって大きな財産となったのであります。
昔はみな自然に生き、このようなことを言わなくても当たり前のこととして生活していたのかもしれません。しかし文明が進むにつれ、何か大切なことを忘れてしまった時代になってきております。
令和になり、私たちは日本人としての心をもう一度見直し、この素晴らしい元号に恥じない時代を創っていかなければならない、そう願うばかりです。そういう思いに気づかせていただいたタイという国、そしてここまで私を導き、助けていただいた方々に感謝し、これでこの話の締めくくりとさせていただきます。
おわり